小説

季節感ずれずれです

本日はゆったりした土曜日を過ごしています。
こんな日は朝からうちのワンコそらとロングウォークへ出発!

機嫌も良いです

遠出の途中の階段は早歩きです

私は置き去りに!

さっさと降りて満足そう

最後の段まで来て満足そう

そこで、本題です

柿の木と朝顔


十分熟した感じで柿の実がなっています。
その周りに朝顔の花が咲いています。
もう11月ですよね!
複雑な風景です
万博の外周でジョギングやウォーキングしている人も
ほとんど半袖シャツとハーフパンツです

皆さん汗かいてます


暖かい晩秋も今日までみたいですが


4巻シリーズ「春の雪」豊饒の海の装丁

1巻から4巻まで同じハードカバー(箱)です

 ひょんなことから、三島由紀夫の豊饒の海4巻シリーズの装丁箱付き単行本を譲り受けました。

箱は村上芳正デザインです。

 実はかなり気にいって、眺めてます。

なんとも言えないカバーですが昭和な感じで、オシャレじゃありませんか?

蔵の絵も「夢をかなえる象」を連想させます。

わたしだけかな?

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芥川賞受賞作:苦役列車(西村賢太)

独特の文体で平成の新しい私小説の道を切り開いたとされる、西村賢太作「苦役列車」。主人公は北町貫太という名前で、明らかに主人公を連想させる名前である。

 私小説と言えばやはりその代表格として第一に思い浮かぶのは、太宰治。代表作「晩年」では「撰ばれたあることの恍惚と不安と二つわれにあり」というベルレーヌの詩集に収められた作品「土星の子」の一節だったと思いますが、この言葉を引用した書き出しから始まっていたと記憶しています。まさにエリートを自覚した言葉です。エリートでありながら、社会の中でエリートとして振る舞えない、自己否定という感じで、エリート(それは違うという人もいるでしょうがあえて)の滅びの美学が描かれていると思います。「人間失格」とほぼ、同じテーマでパート1、パート2という関係でしょう。

私の大学時代、既に大学の教壇に立っていた先輩は島尾俊雄を研究していました。

島尾といえば岸部一徳と松坂慶子が主演して映画化された私小説「死の棘」の作者です。夫婦の精神の崩壊を描いた(私)小説で、大学の先輩=新任講師いわく「昭和の新世代の全くエリート層ではない人間を描いた小説」だと、力説しておられました。たしかに、東大出のエリートが嘆いている作品とは違います。

その先輩いわく、太宰はやはりエリートで太宰作品と「死の棘」とは対極にあると力説していました。その当時はなるほど!時代は移ろい、

文学エリートでなくても、小説は書くんだ!と思ったことを記憶しています。

しかし、この苦役列車は「死の棘」が「晩年」「人間失格」と対極だとすると、その位置付は異次元に属する作品です。

選ばれてないどころか、社会からスピンアウト、ホームレス寸前の中卒主人公が、社会に対し、嫉妬、貧困、無気力、関係拒絶といった

観点で、どうにかこうにか関係を細々と継続していたという、ストーリー自体には夢も希望も光も全くない作品です(でも妙に笑えて、共感できるから不思議です)。

 しかし、この単行本の2作目には逆に、北町貫多という限りなく作者に近い主人公が実際作家になり、自分がぎっくり腰になりながら文学賞受賞候補者に選出され、受賞を心待ちにている心情を描き出した「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」で希望の光を見ることができます。作品では結局受賞できなかったので、本人はやはり、この作品を執筆している時は、所詮芥川賞なんて取れないだろうと、執筆しながら自虐的に自分を慰めていたのではないかと想像しています。

 でも、この西村賢太という作家は稀有な存在だと思います。長年、決定的に社会から選ばれいない低学歴、派遣労働者であった人が、文学小説を書くという、最も文化的で、インテリに属する創作活動を行い、一発逆転、インテリ側の人間になったという事実、衝撃的です。社会構造が固定化されて、こんな作家が出てくるとは想いませんでした。芥川賞選定委員からは糞味噌に言われつつ、一定の評価をされた西村作品は今後も要注意ですね。

北町貫多シリーズの他の作品も要チェックです。


流転の海

 今久しぶりに「松坂熊吾」という人物を主人公にした小説を読んでいるところです。
宮本輝の「流転の海」シリーズ第5部「花の回廊」ですが、この作品の第1部「流転の海」を読んだのは、大学3年のころだったと思います。確か、大学の他のゼミ生の研究論文発表にあわせてだったと記憶しているので、もう25年ぐらいまえのことになりますね。
 純文学の範疇ですが、ハードボイルド自伝的近代歴史小説という感じです。しかも、宮本輝さん、30年位かけて長年書き続けておられるようですが、完結するのか不安です。宮本先生、ダンディですが64歳ですもんね。先生、なんとかよろしくお願いします。
 ところで、子の主人公の子供の伸仁は宮本輝自身なのかと思うのですが、その子が、あの「青が散る」の主人公にイメージとしては結びついてはこないなぁー。
 「青が散る」は私の地元茨木市にある宮本輝の出身大学である追手門大学が舞台となっていいることもあり、身近に感じている小説です。チョッと青春ほろ苦作品ですけどね。
 私が、この作家で一番好きな小説は「避暑地の猫」です。でも、宮本輝ファンにそれを言うとドン引きされること多いんですけど、不思議です。

 あと三島由紀夫が「豊饒の海」シリーズの作品を出していて、名前似てるし、転生輪廻が重要テーマだったりするので、よく間違えられますね。「どーでもいいですよ」の余談でした。


日本文学専攻おいらはドラマー

今でこそ法律関係の仕事をしていますが、大学では何を隠そう日本文学を専攻していました。また高校大学と結構ハードなロックバンド(同類の人たちは、クラシックロック、プログレッシブロックと呼んでいる範疇の音楽)のドラムとして、ライブにもたまには出てたりして、バンド活動を中心に学生生活をすごしていました。という訳でどんな学生生活を送っていたかは想像に難くないと思われます。とてもじゃないが、ほめられたもんじゃ、ありません。今まであんまり実務に関すること以外書いてこなかったのですが、やはり、以前から心がむずむずして、もう我慢できないので、それらの分野でも感じていることを書かせていただこうとうと思います。
まずは文学のほうから
最近、村上春樹の1Q84BOOK3 10月−12月を発売当日に購入し、休日や仕事の合間の電車での移動時間を利用して数日で読み終えました。
予め断っておきたいのですが、私の大学のゼミでも当時から村上春樹は人気があり、親しかった友人を含め、数人が村上春樹の小説論を専攻して研究していました。ですから、巷には、村上春樹のフアンという範疇に止まらず、半分研究者のつもり、ぐらいの人が、「ハンパネェー」ほど多数居るはずです。そこを踏まえ、あえて一切の私見に対するご意見・反論を受けつけず、感想を述べてみたいとおもいます。
読み終えて、実は結構感動しました、もしかして、村上ワールドの「完成型」かもしれないと感じたのです。初期の風の歌を聴け、初期の羊をめぐる冒険等ほか多数の初期の作品では「直子」という愛する女性と「鼠」という親友を失った喪失感・悲しみがテーマだったと思います。根底には、現実世界の不確かさに対する不安、現実世界の崩壊と再構築が作品で試行されていました。ですから、良く吉本隆明の「共同幻想論」がベースになった世界観=都市幻想という観点から、当時論文を書いている学生が多かったと記憶してます。現実の崩壊と言う観点では村上龍の「コインロッカーベイビーズ」や「限りなく透明に近いブルー」とも相通じるところありますね。当時だいたい、村上龍の作品が好きな人は村上春樹のフアンでもあったと思います。この喪失感に人間の記憶のはかなさ、悲しみ自体も薄れていくという時間の流れの中で、もう一度立ち上げっていこうする次の段階に踏み出した作品が「ノルウェイの森」だったと思います。(続く)