芥川賞受賞作:苦役列車(西村賢太)

独特の文体で平成の新しい私小説の道を切り開いたとされる、西村賢太作「苦役列車」。主人公は北町貫太という名前で、明らかに主人公を連想させる名前である。

 私小説と言えばやはりその代表格として第一に思い浮かぶのは、太宰治。代表作「晩年」では「撰ばれたあることの恍惚と不安と二つわれにあり」というベルレーヌの詩集に収められた作品「土星の子」の一節だったと思いますが、この言葉を引用した書き出しから始まっていたと記憶しています。まさにエリートを自覚した言葉です。エリートでありながら、社会の中でエリートとして振る舞えない、自己否定という感じで、エリート(それは違うという人もいるでしょうがあえて)の滅びの美学が描かれていると思います。「人間失格」とほぼ、同じテーマでパート1、パート2という関係でしょう。

私の大学時代、既に大学の教壇に立っていた先輩は島尾俊雄を研究していました。

島尾といえば岸部一徳と松坂慶子が主演して映画化された私小説「死の棘」の作者です。夫婦の精神の崩壊を描いた(私)小説で、大学の先輩=新任講師いわく「昭和の新世代の全くエリート層ではない人間を描いた小説」だと、力説しておられました。たしかに、東大出のエリートが嘆いている作品とは違います。

その先輩いわく、太宰はやはりエリートで太宰作品と「死の棘」とは対極にあると力説していました。その当時はなるほど!時代は移ろい、

文学エリートでなくても、小説は書くんだ!と思ったことを記憶しています。

しかし、この苦役列車は「死の棘」が「晩年」「人間失格」と対極だとすると、その位置付は異次元に属する作品です。

選ばれてないどころか、社会からスピンアウト、ホームレス寸前の中卒主人公が、社会に対し、嫉妬、貧困、無気力、関係拒絶といった

観点で、どうにかこうにか関係を細々と継続していたという、ストーリー自体には夢も希望も光も全くない作品です(でも妙に笑えて、共感できるから不思議です)。

 しかし、この単行本の2作目には逆に、北町貫多という限りなく作者に近い主人公が実際作家になり、自分がぎっくり腰になりながら文学賞受賞候補者に選出され、受賞を心待ちにている心情を描き出した「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」で希望の光を見ることができます。作品では結局受賞できなかったので、本人はやはり、この作品を執筆している時は、所詮芥川賞なんて取れないだろうと、執筆しながら自虐的に自分を慰めていたのではないかと想像しています。

 でも、この西村賢太という作家は稀有な存在だと思います。長年、決定的に社会から選ばれいない低学歴、派遣労働者であった人が、文学小説を書くという、最も文化的で、インテリに属する創作活動を行い、一発逆転、インテリ側の人間になったという事実、衝撃的です。社会構造が固定化されて、こんな作家が出てくるとは想いませんでした。芥川賞選定委員からは糞味噌に言われつつ、一定の評価をされた西村作品は今後も要注意ですね。

北町貫多シリーズの他の作品も要チェックです。